2021年7月27日4,227 View

【体の中には消えない思い出がある】サヨナラの果て、そしてその向こうに伸びる世界のこと。

突然だったり予兆があったりするけれど、いつか必ずやってくるものってなーんだ…というナゾナゾの答え。きっと生き物と暮らしている人ならすぐに答えが浮かぶはず。それは、分かっているけれど分かりたくない。知らんぷりを決めこみたいし、答えを知っていても口に出したくない。きっとね、そんな気持ちになるのでしょう。だって、もし願いが叶うのなら、ずっとずっと一緒にいて欲しいんだもの。

自然にかえる、ということ。

フレンチブルドッグ,虹の橋,思い出

ambrozinio/shutterstock

 

唐突ですが20年前、ひとりでモンゴルを旅したことがあります。当時はそういう海外一人旅みたいなことが流行っていて、もれなくそれに乗っかるミーハー気質な筆者。

 

その旅の目的は、モンゴルの首都であるウランバートルからバスでガッタガタの道を数時間揺られた先にあるカラコルムという場所にある旅行者向けのゲル(モンゴルのテント式住居)に2週間滞在し、その間延々と遊牧民と一緒に馬に乗ること。

フレンチブルドッグ,虹の橋,思い出

sriphojaroen/shutterstock

 

今考えるとさすがに色々無茶苦茶やなと思うのですが、その時にそこで目にした数々の風景は今も心に強く刻まれていて、思えばその時に人生で初めて死生観みたいなものを意識したんだと思うのです。

 

見渡す限りの草原、草原の向こうには地平線。そんな景色の中でひときわ印象に残った光景があります。

 

それは草原のあちらこちらで朽ちて風化した動物の姿。

 

きっと、遊牧の途中で命の限りを迎えそこで眠ったのでしょう。草原に横たわるその骨は、牛だったり犬だったり羊だったり。

フレンチブルドッグ,虹の橋,思い出

MR.SOMKIAT BOONSING/shutterstock

 

ただ、漂白されたように真っ白なそれはなんだか美術品のように美しく、きっといつかは伸びた草に隠され雨に洗われ、風に乗って降り注ぐ砂に埋まって静かに風化していくのだろうとすんなり附に落ちたのです。

 

だってその姿はとても自然で、なんだか至極当たり前の風景だったから。

 

もしこの景色を日本で見たならきっと目を背けるであろう生き物の成れの果てが、そこではとても自然に存在していて、ああ、命の期限を迎えるってこういうことなんだと感じたのです。

 

寂しさや悲しさはどこに行くのだろう。

フレンチブルドッグ,虹の橋,思い出

Sukhareva Aleksandra/shutterstock

 

大切な存在、自分にとって唯一無二だと思える存在の旅立ちを見送ること。

 

これは人間と比べ遥かに寿命が短い犬と暮らす人なら、必ず経験することでしょう。

 

筆者は過去に何頭かの犬と猫、鳥たち、金魚たちを見送り、その都度涙に暮れました。

 

愛を持って接した彼や彼女たちの命の時間の短さが、あまりにも悲しすぎて。

フレンチブルドッグ,虹の橋,思い出

SasaStock/shutterstock

 

現代的な文化に身を置くと、生と死ってものすごく隔絶された感がありますよね。

 

死は悼むべきもので悼み以上の痛みを伴いこの身に襲いかかるのですが、そんな時ふとモンゴルの草原で目にした光景を思い浮かべます。

 

自然の中での生死の境は、とてもとても曖昧に思えました。

 

ああこの生き物はここで立派に生きていたんだな、そして生命がここで費えたんだなと理解でき、悼みを感じても痛みはあまり感じませんでした。

フレンチブルドッグ,虹の橋,思い出

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もちろん、一緒に暮らした時間や思い出をそこにプラスすればそういう風に納得なんてできるはずもないけれど、それでもなお思うのです。

 

いつか果てる命なら、どうかこの手の届く範囲で、できることならこの視線の届く世界で旅立って欲しいと。

 

そしてさらにこんなことも考えます。

 

いつかこの手から旅立つ存在だと知っているから、今を大事にできるんだ、と。

フレンチブルドッグ,虹の橋,思い出

Tienuskin/shutterstock

 

悲しさや寂しさ、どうしようもなく感じるぽっかりと体の真ん中に穴があいたこの気持ち。

 

喪失感というのはすぐにどうにでもできるものではないけれど、私たちには辿れるものがある。

 

それを思い出と言うのかもしれませんね。

 

夜を抜ければ、また朝日が差し込むってこと。

フレンチブルドッグ,虹の橋,思い出

Sbolotova/shutterstock

 

何度も何度も泣きました。だって君の不在はとてつもなく寂しくて、なんでここに今居ないのだろう、なんで今手を伸ばしてその温かい体に触れることができないのだろうと思うから。

 

その全部を思い出しては悲しくて、できることなら君を永遠にしたかった。

 

ただ、私たちもいつかは体から熱を失い、誰かの思い出になるのでしょう。

フレンチブルドッグ,虹の橋,思い出

Sbolotova/shutterstock

 

寂しさや悲しさって、目には見えなくともどこにも行かずそこでゆらゆらと漂っているけれど、その漂うゆらゆらの正体を私たちが受け入れた時に初めて、本心からサヨウナラと言えるのかもしれません。

 

でもね、私たちは経験から知っています。

 

明けない夜はないし、朝が来るとお日様がこんちはーって昇ってきてはまだ悲しみの底にいる私たちを日常という時間軸に戻していくことを。

 

だからたくさん泣いてください。そしてたくさん思い出してください。

フレンチブルドッグ,虹の橋,思い出

Sbolotova/shutterstock

 

改めて思い返せば夢のようだった彼らとの日々は、こうして反芻することできっともっと確かなものになるから。

 

「ことば」を文字という形にして残す動物は人間だけです。

 

だから今感じている寂しさや苦しさを、そのどうしようもない喪失感を文字に残せば、もしかしたら穴が空いた心に絆創膏を貼れるのかも。

フレンチブルドッグ,虹の橋,思い出

Happy Moments/shutterstock

 

日記帳や手帳の端っこに、今の辛い気持ちを書き留めて。

 

そうして傷が癒えた頃絆創膏で補強されたボロボロのハートを目にしたら、その気持ちをそっと抱きしめてあげてください。

 

サヨナラってね、決して別れじゃないんです。また出会えるその先に続く約束みたいなものだから。

 

思い出は“自分の一部”だから。

フレンチブルドッグ,虹の橋,思い出

OlgaOvcharenko/shutterstock

 

別れって辛いですよね。何度経験しても慣れません。

 

なんで別れることを知っていながらこの愛おしいかたまりを迎えちゃったのかな、なんてことも思います。

 

でも、それ以上の幸せを、別れの辛さを軽やかに飛び越えるほどの喜びをくれたこと、それが全て。

フレンチブルドッグ,虹の橋,思い出

studio hoto/shutterstock

 

俯いていると自分の足元しか見えないけれど、大きく息を吐いて空を見上げれば真っ青で。

 

ああ、こんな青空を何度も並んで見上げたよねなんて思い出があれば、それはね、もう自分の体の一部になっているってことだからずっと離れることなんてないのです。

 

 

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